2012年3月 2日 (金)

リーダーシップとマネジメント(4)「中間管理職が組織編成において考えなくてはいけないこと」

以上、マネージャーに求められる最低限の基本条件を述べました。
ただ、基本条件をマネージャーに満たしてもらうためには、マネージャーのさらに上の上司の皆さんに考えてもらわないことがあります。マネージャーが部下の仕事を理解すると言っても限界があるということです。例えば、20人の部下がまったくフラットに下についた状態があったとします。20人分の仕事の量を想像しただけで、いくらスーパーマンのようなマネージャーでも全員の仕事を把握するのは不可能であることはわかるでしょう。ちょっと極端な例をあげてしまいましたが、これは業種によって異なると思いますが、部下の仕事がすべて異なっている場合で考えると、経験的に言えるのは5、6名程度までが限度ではないかと思います。7、8名の部下を抱えてうまくやっているマネージャーもいますが、その場合は少なくとも2、3人の部下は全く手のかからない部下、実務能力としてはマネージャーと同等程度にできる部下がいる場合です。時にはマネージャーの代行が務められる部下がいるような場合です。部長のような立場の人は、組織の最小単位が大きくなりすぎていないか、大きくなっていた場合には、構成している人材をよく調べ、全く手のかからない部下がそろっているかなどの吟味を十分にする必要があります。もしそのような条件が整わなければ、大きくなっている組織は2階層にするか、2つの組織に分けるなどの編成が必要です。
 逆に、2、3人程度の組織単位を作ることがあります。この場合でもマネージャーは設置しますが、こういう場合は嫌でもマネージャーは部下の仕事の把握はできます。マネージャーはプレイングマネージャー(担当実務をもっているマネージャー)になっているはずで、部下と実務レベルで連携しますし、仕事自体には深く入り込むことになりますから、部下とは多少実務の内容は異なっていても実務への理解は実務をもたないマネージャーに比較すると理解度は格段に違います。ただ、このような組織のマネージャーには本格的なリーダーシップの力はつきませんので、長くこのような立場を続けさせない方がよいでしょう。はっきり言って楽なマネージャー職です。
 時には、5、6人のマネージャーでもプレイングマネージャーになっているケースもあると思いますが、これは非常に危険な状態と認識すべきです。マネージャー本人にその気はあっても部下の仕事を把握する余裕がない可能性が高いと思います。リーダーシップは発揮できない、マネージャーであるがために実務も完璧にやらなくてはいけない、そのような状態では、精神的にも追いつめられます。下手をすると人材を潰しかねません。特に自分で仕事を抱え込むタイプの真面目なマネージャーは要注意です。
 最後に、三つの基本条件を満たせるマネージャーの資質について述べます。最低限の基本条件とは言え、実は容易に満たせるものではありません。マネージャーには、部下の仕事に深く入り込まなくてはいけない局面に耐えられるだけの、人間的な強さが必要です。部下は仕事に関与されることを嫌がりますから。部下と密接に関わることのできる人間的な強さや魅力をもったマネージャーかどうかよく見極めながら人事を考えなくてはいけません。弱いマネージャーにはバックアップしてあげなくてはいけません。今度はマネージャーの上司が部下であるマネージャーたちに深く関与しなくてはいけないということです。
限られた人材しかいないなかで理想的な組織は組むことはできません。不完全なマネージャーを抱えざるを得ない、逆に仕事が出来るマネージャーには2つ以上の組織マネージャーを兼務してもらうなど、組織は必ず矛盾をはらんでしまうものです。これは仕方のないことです。 
組織の構成員はロボットやコンピュータのようなもの正確な存在ではなく、極めて曖昧で不安定な存在であることを分かったうえで、日々悩みながら組織の編成と運営をやっていくのが現実だと思います。現場監督のマネージャーが部下に目を光らせるのと同じように、その上の上司はマネージャーたちに目を光らせていないといけません。組織だけ編成してあとはうまくいくなどと夢にも考えてはいけないことです。

2012年3月 1日 (木)

リーダーシップとマネジメント(3)「現場マネージャーは部下の業務品質への感応力を高めなければならない」

次に、部下の仕事を把握したら、今度は部下がその仕事に対してどこまで遂行できるかどうかの把握をしなくてはいけません。それには、日頃の報告・連絡・相談を徹底させることは言うまでもありませんが、大切なのは一人一人の仕事の能力を細かく見極めることです。仕事には得意・不得意があります。その部下に与えている仕事のどこが苦手なのか、あるいは苦手を通り越して能力を超えているところはないか(新入社員などの場合)、など、仕事と能力のギャップを仕事のプロセスや種類ごとに一人一人確認しておかなくてはいけません。
 そして、仕事と能力のギャップを細かく見極めた後は、ひとりひとり部下の仕事において、どのプロセスでチェックを入れるか、どの仕事をしているときにチェックを入れるか、それを丹念に決めていかなくてはいけません。
 さらに、これがやっかいなのですが、部下の仕事にはムラがあります。信頼していた部下が突然ミスを出す、というようなことがあります。部下の能力は日々変化するのです。変化の原因は、疲労、意欲、家庭の事情、体調など様々です。部下が能力を発揮できるかどうかを、日々部下との会話や顔色をよくみて判断しなくてはいけません。もし異変が感じられるようならば、その解決に協力してやれることはやり、普段よりもチェックを細かくしていく必要があります。

 さて、細かすぎてうんざりするようなことを述べました。それをマネージャー一人ですべてやることができればよいのですが、必ずしもそうはいきません。特に人数の多い組織では、一人ですべてのチェックをやっていては体がもちません。そこで考えなくてはいけないのはマネージャー業務の部下への分散です。社歴、経験年数が増えるほどチェックポイントは減っていくでしょうし、能力が高いほどチェックポイントは減ります。新入社員はチェックポイントだらけとなるでしょう。そうなると、マネージャーが新入社員にかかりっきりということになってしまいます。そこで、今度はそのチェックそのものを新たに別の社歴や経験年数の高い部下に新たな仕事として割り振らなくてはいけません。人数が少ない組織ならばその必要もないかもしれませんが、新入社員や異動してきたばかりの部下にはOJTを担当する他の部下を割り振る必要があるでしょう。あるいは問題のある部下についても同様にバックアップできる部下を割り当てなければいけません。また、自分と同等の実務能力のある社員(チェックの必要がほとんどない社員)にはサブマネージャーのような立場を与え、チェックポイントの多くを自分と分け合ってもらうことも考えなくてはいけないでしょう。

 以上のようなプロセスを経て行けば、組織の仕事の質は確実に高まっていきますが、ひとつ大きな障害があります。それは、仕事と能力を知るためにはかなり部下の仕事に入り込む必要がありますが、それが決して容易なことではないということです。部下がオープンにしてくれる場合はよいのですが、必ずしもオープンにしたがらない部下もいます。
まずは、これまで述べてきたようにしなければ組織としての仕事は完成されないことを根気強く説明して納得してもらわなくてはいけません。しかし、そのようにして部下に聞きながらチェックポイントを決めて行ってもミスやトラブル、遅れが出る場合があります。部下は本当に正直には自分の仕事を教えてはくれないものです。上司であるマネージャーに仕事のすべてを知られることが自分の評価に影響を与えると思うからです。悪気がないだけにやっかいなのです。ミスやトラブルが出た時は部下も立場が悪いので仕事をかなりオープンにしてくれます(これはチャンスです)が、一番難しいケースは残業の多い部下です。ミスやトラブルは出さない完全な仕事をする、ただ仕事に時間がかかる。完全な仕事をするためには時間がかかるのは当然という顔をして残業時間が増えて行く部下がいます。残業の多い部下の仕事をいかに改善するかが最も難しい仕事です。ほぼ同じような仕事を与えている他の部下がいる場合は、その部下と比較して説得する(傷つけないように)ことができますが、都合よくそういう部下がいないことの方が多いでしょう。
そういう時は、マネージャーは思い切ってそういう部下に対して「自分と一緒に仕事をさせてほしい」と頼むのが有効な方法です。そういう部下は例外なく、あるプロセスで必要以上に時間をかけている可能性が高いのです。これは仕事のこだわり(こだわりという言葉は本来悪い意味の時に使う言葉です)が強いケースです。一つ一つの仕事をその部下と一緒にやってみましょう。部下がやる、自分が横で同じ仕事をやる、そうすると部下の方が時間がかかる、なぜか。それを追求すればよいのです。これはかなり根気のいる仕事ですが、そこまでやってはじめて部下の把握はできるものです。  
中には一緒にやることを拒む部下もいます。そういう部下は実は自分が悪いこだわりを持っていることをわかっているものです。そういう時には「一緒にやりたくなければ残業を減らしてほしい」と頼めば案外あっさり引き下がるものです。おそらく次の仕事からはその悪いこだわりを減らして残業時間も減っていくことでしょう。もしも残業時間が減らなければまた一緒に仕事をすることを頼めばよいのです。
 とてもストレスの大きい進め方ですが、ひと通りやってしまえば済むことです。思いきって部下の中に飛び込んでいきましょう。

 以上、現場のマネージャーに求められる最低限の基本条件を述べてきました。マネージャーというのは、「自分について来い!」みたいな恰好のよい場面もなくはないですが、その日常は緻密な計画と組織化の連続と、部下一人一人との深いコミュニケーションの根気強い積み重ねです。
 大変ではありますが、そこまで部下に関与してはじめて部下も心を開くものだと思います。特に仕事のできない部下にとってはこれほどまでしてくれるマネージャーには心から感謝するはずです。こういう部下にとって任されることほど不安なことはありませんから、しっかりマネージャーが見ていてくれるというのが大きな安心感になります。そして、他の部下もそんなマネージャーの姿を見ています。そうやって部下を一生懸命見守っているマネージャーには温かい人間性を感じるはずです。
また、部下をほめることは意欲向上には欠かせないことですが、仕事をよく見ているマネージャーでなければ本当の意味でほめることはできません。仕事の結果だけとりあげてほめられることも嬉しいでしょうが、本当は日々の小さな仕事の工夫にマネージャーが気づき、ほめてくれることの方が嬉しいはずです。結果だけでほめる多くのマネージャーは表面的なことしかわからずにほめています。どこがどうよかったのか、そこまで理解してほめられた方が嬉しいに決まっています。

これだけのことをやりきれば、部下からは信頼され、好感され、尊敬されるマネージャーになれるはずです。そうやって作った組織はマネージャーにとっても部下にとっても忘れられない結束の強い組織になり、仕事を離れても人間的な結びつきが強くなり、人生を豊かにしてくれるはずです。

2012年2月29日 (水)

リーダーシップとマネジメント(2)「現場マネージャーは部下の仕事の全てを把握しなくてはならない」

 次に、部下の仕事への理解についてです。マネージャーは部下の仕事の全てを把握しておかなくてはいけません。これは現場のマネージャーだけに求められる厳しい条件でしょう。上の役職に上がれば上がるほど現場の仕事から遠のき、責任をもつ仕事の範囲は広がりますので、当然、仕事についての幅広い知識はあっても、一つ一つの仕事への理解は浅いものにならざるを得ません。これは仕方のないことです。しかし、現場のマネージャーだけはそういうわけにはいきません。
部下の仕事を把握する、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、実際にマネージャー職に就いた時に、「部下に任せる、責任は自分が取る」などと聞こえのいいことを言って、部下の仕事も知らない、部下がどの程度その仕事ができるのかもわからない、という状態に陥っているマネージャーは数多く見られます。もちろん、部下の仕事を知り尽くして、部下がその仕事をやれる能力があることがわかっていて、部下に知られないようにおさえるべきところはおさえる、そういう任せ方をする立派なマネージャーもいます。本当に部下に任せっきりになってしまって、ミスやトラブルが起こっては取り返しがつかない事態になるような任せ方をしてはいけません。「部下に任せる、責任は自分が取る、そして、ミスやトラブルは絶対に起こさない」というのがあるべき姿です。
しかし、現実に仕事の現場を見渡すと、ミスやトラブルが起こったり、予算をオーバーしたり、残業時間が多くなったり、期限が守れなかったり、毎日どこかでそんなことが起こっていませんか。仕事とは、決められた期限までに、与えられた予算、労働時間の範囲で、求められる水準の成果(ミスがない、品質基準を満たしている)を出すことです。部下の仕事を把握せずして、そんなことができるはずはありません。ミスが出る、残業時間が多い、というような問題はすべてマネージャーの責任です。うまくいかない根本的な原因は部下の仕事を理解していないことが多いのです。部下の仕事の一つ一つを完全に理解していれば、(後はある程度の知力さえあれば)与えられた仕事を完全に遂行するために、どのようにどのように仕事を部下に分担させ、一人一人の部下の仕事の予定をたてればよいか(計画・組織する)がわかるはずです。逆に部下の仕事の一つ一つを完全に理解していなければ、計画や組織は不完全なものとなり、納期も予算も品質も守れない仕事になるでしょう。

(次回に続く)

2012年2月28日 (火)

リーダーシップとマネジメント(1)「部下の仕事はすべて現場マネージャーの責任」

リーダーシップとマネジメントというふたつの概念がある。ふたつの概念の間には共通する部分はあるが、その違いをよく理解しておかなくてはならない。
具体的な違いについては後で述べることとし、まず現場のマネージャーの仕事について4年前に製造業を対象にまとめた文章があるので掲載する。

ここで言う現場のマネージャーとは仕事の最前線で働くメンバーを部下に持つ、一言で簡単に言えば現場監督のことです。一般の企業で言えば、係長、主任、チーフ、…など様々な役職で呼ばれるマネージャーが該当します。
現場のマネージャーに要求される最低限の基本条件を大きく分けると次の3つであると考えています。

1、部下の仕事の責任はマネージャーにあることへの理解
2、部下の仕事の完全な把握
3、部下の業務品質への感応力

この3つの条件がすべてそろわなければ絶対に安定した成果は出せません。ひとつでも満たしていないと、ミスやトラブルにまみれモチベーションの低い組織になることは間違いありません。

1.部下の仕事はすべてマネージャーの責任であることへの理解
 まずは、最も基本的なことをひとつだけ述べます。最悪のマネージャーは、仕事のミスやトラブルを部下のせいにして自分には責任がないかのように振舞うマネージャーです。
 部下の仕事の責任はすべてマネージャーにあります。これは絶対の組織の大原則です。
この原則がわかっていない人はほとんどいないと思いますが、もし思い当たるようなことがあれば今すぐ考えを改めなくてはいけません。
ほとんどすべての部下は不完全な存在です。放っておくと必ずミスやトラブルを引き起こします。このことは強く認識しておかなくてはいけません。マネージャーの役割は、自分の組織に与えられた仕事に対して、不完全な部下の仕事を自分の組織全体で補い合いながら、時には自分が部下の仕事の肩代わりすることも含めて、完全な仕事に仕上げることです。部下がミスやトラブルを起こすのは当たり前で、それをなくすのがマネージャーの仕事です。だからミスやトラブルはすべてマネージャーの責任になってしまうのです。
ミスやトラブルを起こした部下に責任をとらせるのは、そんな基本的な役割を認識が出来ていない証拠です。ごくまれに取引先や上司の前に部下を連れて行って謝罪させる(自分は謝罪しない)というひどい光景を目にすることがありますが、私はマネージャーの役割を認識していません、と自分で言っているようなものです。
また、ミスやトラブルを修復するための対応をすべて部下にさせるのも最悪のマネージャーです。ミスやトラブルが起こったらマネージャー自らが陣頭指揮をとって修復にあたらなくてはいけません。なぜなら、ミスやトラブルが起こった根本的な原因はマネージャーにあるからです。自分で修復しなくて誰が修復するというのでしょうか。ただでさえ、ミスやトラブルを起こした部下は傷ついています。冷静な対応などできません。ミスやトラブルを起こした当事者だけに関連する部門の協力などをとりつけようにも相手からは非難されたりして対応はどんどん遅れます。ミスやトラブルの対応は権限が大きいものがやった方が早いに決まっています。そんなこともわからずに、部下に対応させるのは自分で自分の組織の地位をおとしめ、部下には意地悪く罰を与えるようなものです。
 繰り返しになりますが、マネージャーはミスやトラブルが出たら、部下の代わりに謝罪し、自ら対応しなくてはいけません。
 部下の仕事の責任はすべてマネージャーにあること。これが大前提です。

 余談ですが、ミスやトラブルが起こった時に部下にはマネージャーに借りができてしまいます。特に新任のマネージャーにとっては部下を掌握する大チャンスです。新任の間は部下の仕事の管理が不十分なことが多くミスやトラブルが起こりやすいものです。少し不謹慎な言い方ですが、不幸にしてミスやトラブルが起こった時はチャンスと考えましょう。部下に貸しを作れば、仕事を指示・命令しやすくなりますから。責任をとって部下の代わりに謝罪することは悪いことばかりではないのです。積極的に部下の代わりに謝りに行きましょう。
極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、マネージャーのさらに上の上司は誰がミスを犯したかは知らない、部下の方は自分の上司はマネージャー以外にはいないように感じている、このくらいの状態であってもよいくらいです。よく職場でまとまりのいい組織が「チーム○○」だとか「○○組」「○○軍団」(○○にはマネージャーの名前が入る)呼ばれたりすることがありますが、そういう組織は例外なくいま述べたような組織になっています。

(次回に続く)

2012年2月23日 (木)

組織開発という概念。

組織開発という概念がある。
戦略を実行するのは組織である。戦略とは一種のプログラムであり、そのプログラムを実行する装置として組織をみなすと、組織の品質が高くなければ戦略は成功しないとうことになる。組織を高品質にするための考え方や具体的な手法などをまとめたものが組織開発という概念である。人材を育成する人材開発という言葉があるように、人材の集合である組織を育成するための概念として組織開発という言葉があるのは自然なことだろう。

組織開発は国内ではあまり普及していないが、海外ではかなり研究が進んでいる。海外における組織開発(Organization Development あるいはOrganizational Development)の定義を調べてみると、例えばculture, value, behavior, system, process, empowerment, structureなどの言葉がキーワードとして使われており、組織の根底にある風土や文化、価値観、行動規範、意欲などの構成員の意識レベルのような基礎的なことから、仕組み、プロセスといった仕事の仕方、組織の編成のあり方のようなことまでが研究の対象になっている。
戦略のレベルを高める努力の量に比べると、これらのようなキーワードを考える時間は圧倒的に少ないというのが現実だろう。よく「組織は戦略に従う」という言い方をするが、せいぜい戦略実行のための最適な組織編制を考えるという程度のものにとどまっている。
プログラムを実行する装置というようなとらえ方をすると、プログラムと装置の品質向上には同等レベルの努力が払われてもよいはずだ。実際、組織開発においては、戦略と組織は車の両輪であるという位置づけである。
海外との競争に苦戦している日本の現状を考えると、戦略はもちろんのこと、組織というテーマについての研究が十分なされていないことも大きな原因のひとつではないだろうか。企業環境は凄まじいスピードで変化しているのに、組織(に含まれる様々な要素)は旧態依然としたものにとどまっているということである。

最後に海外の組織開発の定義をひとつだけ引用する。

Organization development is the planned process of developing an organization to be more effective in accomplishing its desired goals. It is distinguished from human resource development in that HRD focuses on the personal growth of individuals within organizations, while OD focuses on developing the structures, systems, and processes within the organization to improve organizational effectiveness.
American Society for Training & Development
(組織開発とは、組織が確実に目標を達成するための組織強化計画である。それは人材開発とは異なる。人材開発は組織を構成する個人の成長に焦点を当てるが、組織開発は組織を強化するための組織の構造やシステム、プロセスなどに焦点を当てる)

訳は私の訳なので怪しいが、海外ではこのように組織を強化することだけに焦点化したプログラムが普及していることをよく認識しておきたい。

参考;ピープルフォーカス・コンサルティング「組織開発ハンドブック」(東洋経済)
Resource Library THE CBS INTERACTIVE BUSINESS NETWORK
ODportal.com

2012年1月28日 (土)

戦略をストーリーで語る。

ひとつ前の記事にいただいたコメントに「ストーリー」という言葉があった。組織を動かすためには戦略をストーリーのように語らなくてはいけない。「ストーリーとしての競争戦略」(楠木建、東洋経済新聞社)という本が売れているらしいが、戦略をストーリーのように構築するという概念は10年以上も前にハーバード・ビジネス・レビューで発表されている。ダイヤモンド社の論文検索で「ストーリー」をキーワードにして検索すると最も古いのが1998年の9月の「3M:組織を巻き込む“戦略ストーリー”の技法」という論文だ。たまたま私もこの論文を読んで多いに刺激を受けたので記憶に残っていたが、今読んでも新鮮である。
それはビジネスに限らない普遍的な要素を含んでいるからである。論文はまず多くの事業計画、戦略のドキュメントにある「箇条書き形式」の批判から始まる。その詳しい内容をここで述べることはできない(論文は有料閲覧、定期購読者には無料閲覧できる)が、このブログのテーマに関係する説明部分のみ引用させてもらう。

認知心理学では「箇条書き」による表現は非常に覚えにくいとされている。(中略)普通の人は、箇条書きの最初と最後の項目はよく覚えているが、他の項目はそうでもない。さらに危険なのは、記憶が各自の関心に左右されてしまう点である。自分の好きなことや興味を持ったことは覚えていたとしても、全体像を覚えてはいないのである。
優れたストーリー(および優れた戦略プラン)は、関係性、時間的な経緯、因果関係、項目間の優先順位を明示できる。そして、それが「複雑な全体」としてとらえられ、記憶される可能性が高い。この可能性こそ、ストーリーによる戦略提起を指示する強力な根拠なのである。

普遍的であると言うのはこの部分である。物事は独立したものよりも関連づけられている方が記憶に残るのだ。例えば教育においては知識の詰め込みではなく知識間の関連を重視して教えた方がよい。
論文では具体的なストーリーの作り方を詳説しているが、私が実践してきた事業戦略のストーリーのプロットの仕方は次のようなものだった。ストーリーすなわち物語であるから起承転結での組み立てを意識する。

起;課題は何か。顧客、自社、市場環境、競合等の現状を正しく認識し、課題を抽出する。
承;そもそも組織の使命は何か、組織の目指すビジョンは何かを確認し、現状とのギャップを課題としてさらに整理し直す。
転;そのギャップを埋めるための課題解決のプロセスを具体的な行動計画としてまとめる。その際に最も効率的・効果的に解決できるポイントを絞り込む、できればひとつに。それが戦略の本質である。
結;行動計画を実践した結果、組織の成果がどうなるのか。企業ならば売上・利益のような財務指標の数々を挙げることになる。これが数値目標として整理される。

おおまかに言うとこのような流れでまとめるわけであるが、あくまでも一例で実際にはバリエーションは多い。
大切なことはそれぞれを構成する要素間のロジックを明確にしていくことだ。要素を羅列することは絶対に避けなければいけない。要素は独立したものではなく要素間の関係(因果関係、従属関係など)が明確になっていなくてはならない。

どんなに優れた戦略であったも実行されなければまったく意味がない。戦略を実行する人々にいかに戦略を理解、記憶、実行してもらうか、そのための努力は戦略そのものを発想する努力に匹敵するくらい重要視されなければならないだろう。

2012年1月22日 (日)

狩野派のように企業を経営する。

日経新聞の連載小説「等伯」。「松竹図屏風」などの作品で知られる長谷川等伯の生涯を描いた小説だ。20日(金)の連載分に長谷川等伯が正月に息子の久蔵に今年の目標をたずねる場面があった。久蔵は狩野永徳の八大弟子にまで登りつめ、今は父等伯と画業を共にしている。永徳は少し前に亡くなったばかりである。

「総帥の境地に一歩でも近づくことです」
永徳への追慕を迷いなく口にした。
「この私には、近づいてくれぬか」
「父上は飛び抜けておられます。鍛錬をつんだからといって近づけるものではありません」
等伯の絵は技法によって仕上がったものでなく、天才的な個性からあふれ出るように発したものである。
だから近付こうとしても、同じ方向をめざしているかぎり等伯以上のものは描けないという。

狩野派は絵の技法を代々積み上げ継承していた。狩野派から生まれる絵はその技法を忠実に守りながら発展する。一方、長谷川等伯は一代で名を広めた。代表作「松林図屏風」には技法を越えた天才的な筆づかいと構成力を感じる。

ビジネスでも似たようなことがある。大きな成果を上げる人たちの中にとても真似ができないようなやりかたで仕事をする人が少数いる。前職で私はこれを「曲芸」と呼んでいた。「あの人のようになりたい」という後輩に「あれは曲芸だから真似をしてもできない」と諭すことがよくあった。今思えば余計なことを言って新しい才能の芽を摘んでいたのかもしれない。
しかし、企業にとって最も大切なのは誰がやっても一定以上の成果を上げることのできる方法論を残すことである。天才を発掘してビジネスを発展させることも出来るだろうが、それでは経営が安定しない。あくまでも基本は再現性のある方法論を蓄積し、それを忠実に守りながら新しい方法論を生み出し続けることである。その繰り返しのなかで企業は発展する。
時々出現する天才によって企業は飛躍的な発展を遂げることもある。しかし、少なくともこの基本がない企業には継続的な発展はない。

小説での位置づけとは異なるが狩野永徳も天才だったと思う。大徳寺聚光院の「花鳥図」には技法に忠実なだけでは描けない斬新さがある。狩野永徳は4代目にあたるが狩野派は江戸末期まで400年も続く。永徳のような天才が連続して現れたとは思えない。技法を継承し続けたことが一派の存続の基礎であったことは間違いない。

2012年1月14日 (土)

フィリップ・コトラー「マーケティング3.0」

最近、フロー情報の収集に追われてストック情報をおろそかにしている。フロー情報とは新聞、テレビ、メルマガ、ブログ、ツイッターなどのチェックから得られる情報である。私のこうした情報集手法はたいしたことはないと思っているが、実はこれらのフロー情報をチェックするだけで自由な時間の大半が奪われている。しかしフロー情報の大半は捨てられる情報だ。自分にメリットのある情報はごくわずかで極めてコストパフォーマンスの悪い情報収集である。一方、ストック情報は目的がはっきりしていればそれに答えることの出来る情報が得られやすくコストパフォーマンスがよい。もっとフローとストックの情報のバランスをとって収集しなくてはならない。

今日は表題の本を読み始めて上記のような反省をしている。フィリップ・コトラーは若いときによく勉強させてもらった。30年近く前の話だが、初めてプロダクト・マネージャー職(自称だが)に就いた時にマーケティングの方法論を多く学んだ。「マーケティング原理」などは厚さが5センチくらいあって辞書のようだったが、これほどもれなく体系的にまとめたマーケティングの本はなかったように思う。例えば「選挙」のようなテーマもマーケティングの対象として扱っていてとにかく広く深く編集された本だった。

そのコトラーが「マーケティング3.0」と題して2010年の9月にソーシャル・メディア時代のマーケティングの方法論を展開している。もう1年半も前である。あれほど心酔していたコトラーの新刊に気づかないとは・・・。やはり多すぎる情報は大切なものを見失わせるものだ。表紙にある紹介文を引用する。

「消費者志向」はもう古い! マーケティングは「2.0」から「3.0」にバージョンアップした。モノを売り込むだけの「製品中心」が「1.0」。顧客満足をめざす「消費者志向」が「2.0」。では、「3.0」とは何なのか。ツイッター、ブログ、ソーシャル・ネットワーキング・サイト、ウィキペディアなどソーシャル・メディア上の評判が決定的な影響力を持つ時代に、マーケティングは何をめざすべきか。新興国市場やグリーン市場にはどう取り組むべきか。“マーケティングの神様”コトラーによる新時代のマーケティング原論!

というわけで、今は人と企業との関係がソーシャルメディアのような新しいメディアによって媒介され、その関係が大きく変容している。マーケティングは人と企業(商品)の関係をコントロールする方法論であるから当然同じように変容しなくてはならない。そんな当たり前のことを今日まで考えることなく・・・、何をしていたのだろうかと情けない気持ちだ。

第1章からいきなりマーケティングの新しい定義があった。恥ずかしながら、私の若い頃のマーケティングの定義を振り返る。

「マーケティングとは、顧客のニーズを正確に把握し、ニーズに合致した商品(Product)を作り、商品の良さが確実に伝わるように営業、販売促進活動(Promotion)を計画・実践し、購入したい顧客に確実に商品が届く流通(Place)を組み立て、適切な価格(Price)で販売する、総合的な最適化活動である」

色んな本を読んで自分なりにまとめたものである。不完全ながらもだいたいこういう考え方でこれまでやってきたが、今日からこれを大きく見直し自分なりの定義を再度まとめ直さなければならない。
この本で紹介されている新しい定義は次の通り。

「マーケティングとは、消費者、顧客、パートナー、および社会全体にとって価値のある提供物を創造、伝達、流通、交換するための活動、一連の制度、およびプロセスをいう」

これはコトラー自身の定義ではなくアメリカ・マーケティング協会(AMA)が2008年に定義したものである。

宣伝文句はソーシャル・メディアのことが強調されているが、この定義を第1章で取り上げていることでわかるようにこの本ではもっと幅広く世界の変化をとらえてマーケティングを再考している。

2012年1月11日 (水)

デジタル教材における理解ということ。

デジタル教科書教材協議会(DiTT)昨年12月27日勉強会の議事録で、鳴門教育大学の藤村裕一先生の経験談が示唆深い。

「私は11年前に文科省予算で科学技術振興機構(JST)においてデジタル教材提供サイト「理科ねっとわーく」を作成して現場に提供したが、そこで苦い経験をしたことがある。それはデジタル教材を使用することにより、こちらの意図に反して,児童生徒を「わかったつもり」にさせてしまう授業が広がってしまったということである。提供した学習用デジタル教材は,実験・観察を模擬体験させ,解答まで提示するものであったため、子どもが課題に対して仮説を立てて実験や観察を行い,その結果を基に,「考える」ということが抜けていたのである」

全くそのとおりで、便利な道具で「理解すること」を楽にさせてはいけない。
理解とは、わからないものをわかるという状態に到達するプロセスを創造することである。理解は受動的なものではなく主体的な創造なのである。その創造のプロセスこそが人間の脳の発達である。
もともと紙や授業で十分理解できていたことをわざわざデジタル教材化する必要はない。学習に効率の発想を安易に持ち込んではいけない。

ただし、学習量が多く時間の限られている「受験」の場合は全く逆の発想があってもよいだろう。

関連記事;理解ということ。

2012年1月 6日 (金)

ブラックボックス化した社会。

コンピュータを使いながら思い出したことがある。
コンピュータが職場に入り始めた頃のこと。1980年代の半ば位に私のいた職場にコンピュータが来た。IBMの5550シリーズ、当時はハードディスクのない機種だった。今では信じられないことだがこれで高級品である。とても家庭では買えない価格だった。
仕事はまずOSの入ったフロッピーディスクを入れて読み込ませるところから始まる。ガシャガシャという音がしてしばらく時間がかかって・・・、これでやっとただの機械の箱がコンピュータになるという感じがしたものだ。
読み込んだOSが入る場所は主記憶装置(メインメモリー)と呼んでいる場所だった。今はあまり使われない言葉だがその容量はわずか640キロバイトである。OSを読み込んだ後にソフトウエアが入った別のフロッピーディスクに入れ替えて再びソフトウエアをガシャガシャと読み込んで大丈夫かなと思うが、それでグラフ表示のような作業までしっかりできていた。仕事が終わったらデータをまたまた別のフロッピーディスクに入れ替えて保存する。今思えば面倒な作業だ。
やがてハードディスクを内蔵した機種が来た。ハードディスクの容量は20メガバイトしかなかったが、当時はそれでも凄い大容量という言われ方だった。20メガも使い切ることはないままそのうちハードディスク内蔵は当たり前のものになっていった。
その頃の思い出深いことがある。コンピュータの説明を後輩にするためにハードディスクのない機種の方であえて説明したことがあったが「やっと仕組みがわかりました」と言われたのが今でも忘れられない。ひょっとしたら後輩はわかっていたのかもしれないが当時は上下関係がしっかりしていた。

ハードディスクが当たり前のようになった頃からコンピュータのブラックボックス化が加速していった。その頃から20年近くが過ぎようとしている。今やそのハードディスクもなくなろうとしていてウルトラブックと呼ばれるハードディスクの代わりにSSD(Solid State Drive)を搭載したPCに期待が集まっている。仕事を始める時は音もなくわずか10秒あまりで立ち上がる。もしも自分が最初に使うコンピュータがこのウルトラブックだった場合はコンピュータに対する認識はかなり異質なものになっただろう。おそらくコンピュータの仕組みなどほとんど意識せずに使うことになり、まさにコンピュータはブラックボックスとなってしまっていただろう。
iPadのようなタブレット型になるとその程度はもっと高まる。最近のことだが、iPadを使っている幼児に紙の雑誌を与えてみたらその幼児が写真をタップしてしまうという様子を映した動画を見ることがあった。これにはちょっと背筋が冷えた。

さてコンピュータの話は前置きのつもりだったが長くなってしまった。
言いたいことは、世の中あまりにも多くのものがブラックボックス化してはいないか、それによって失われたものはないのか、という懸念である。電機製品に限った話ではない。政治も経済も含めて私たちを取り囲む社会全体がそうなってはいないかということだ。(大きく出てしまったが自分は馬鹿だと言っているようなものでもある)

iPadを使う幼児の奇行はいずれ修正されることになるだろうが、この幼児の雑誌の誌面に対する最初の認識は「雑誌は触れば動いたり変わったりする」という認識であった。それは主観的な認識である。もちろん自分で自分の認識を修正することもあるだろうが、もしも誰からの助けもなくそのままだとしたら・・・。いらついた幼児は雑誌を破り捨てるくらいのことはするかもしれない。

人間が主観だけで行動するということは恐ろしいことである。自分に見えるものしか信じない。自分に理解できることしか信じない。それらに反するものは排除しようとするかもしれない。排除が暴力によってなされることになったらどうだろうか。

政治も経済も含めて社会全体を完全に理解できている人間はごくわずかである。その社会に対して世界中で不満が爆発している。最近のことで言えば米国の「ウォール街を占拠せよ」運動はネットを通じて他の多くの国にも波及した。しかしこの運動は目的がはっきりしていなかったらしい。ネット上には「そろそろ目的をはっきりしよう」というような書き込みがあったと聞く。目的がはっきりしないのは参加していた人々の不満が多種多様であったからではないか。単なる経済的な不満だけが国境を越えるレベルにまで共振しただけというように見える。要するに運動に参加した人たちは自分の主観だけで行動したということだ。

冷静に考えればウォール街だけによって今の経済を作られているわけではないことくらいはわかりそうなものである。しかしほとんどの人間は主観的にしか社会を認識できていない。それほど社会は複雑で理解しにくいものになってしまった。今見えている社会は主観的なものに過ぎないという自覚がないまま行動することは危険なことだ。「ウォール街を占拠せよ」運動においても一部で暴力的な行動に発展してしまったのは残念なことである。ブラックボックスが自分にメリットを与えてくれなくなった時、ブラックボックスを壊すような対処の仕方は明らかに誤りである。

社会はすでにブラックボックス化しているという自覚だけは最低限もっておかなくてはならない。よく「未来が不透明だ」というようなことが言われるが、現実は「今が不透明なブラックボックス」だからこそ未来が不透明になっているということである。

2012年1月 3日 (火)

記憶に執着する理由。

なぜ「記憶」に執着しているのか?
これからの時代を生き抜くためには常に新しい創造を生み出せる力が重要だ。他の人でも出来るレベルのことは次第に価値が失われてくる。それはコンピュータによって置き換えられたり、人にしか出来ないことであってもより安い労働力をグローバルに求めて置き換えられる時代だからだ。日本の特徴であった豊かな中間層が失われつつあると言われるようになった。中間層の労働は安く買い叩かれているのだ。安く買い叩かれない労働は誰でもは出来ない新しい創造を伴うものである。

では、新しい創造を生み出すために必要なものは何か?
ひとつはこのブログのメインテーマである「思考」の方法論である。
そしてもうひとつが「記憶」である。どんな新しい創造でもそれは過去に得た知識がベースになっている。その知識が豊かであればあるほど創造は豊かなものになる。知識は記憶の一部だ。知識を豊かにするためには記憶の仕組みをよく理解しておかなくてはいけない。それが記憶に執着する理由である。

現代は膨大な知識に誰でもアクセスできる時代になった。アクセスしようとしなくても次から次へと知識の波が押し寄せてくる。電子メールはもちろんツイッターやフェイスブックのようなソーシャルメディアに浸ると処理しきれない知識に溺れそうな感覚になる。

膨大な知識が毎日自分を通り過ぎて行くが、果たしてどれだけの知識が自分の中に蓄積されているのだろうか?
そのことを考えると心細くなってしまう。おそらく記憶に残らない知識もまた膨大であったのではないかと考えるようになった。吸収できる知識の量には限界があるのではないか。

さて、記憶の仕組みについて再度まとめてみる。記憶に関する文献のいくつかを参考にするとだいたい次のような仕組みらしい。
記憶には短期記憶と長期記憶の2種類がある。
長期記憶がここで記憶と呼んでいるもの、すなわち知識が保存されている記憶のことを指す。
短期記憶は今現在の自分を取り囲む情報を一時的に取り込んだ記憶であるが、その短期記憶の中で情報が処理される。処理をしている部分を作動記憶(作業記憶)と言う。
作動記憶上で処理できる情報の数は7±2程度と言われている。まず一度に処理できる情報に限界があることを知らなくてはならない。限界を超えた情報は入ってこないのである。つまり7±2を越える情報はあってもなくても同じということだ。案外、この数字は小さいものである。もともと膨大な情報は処理できないようになっている。
作動記憶で処理した結果は短期記憶から長期記憶に保存される。保存にはいくらかの時間が必要であるがその間の記憶は極めて不安定な状態にある。その時間は約1時間程度と言われている。この1時間の間に新しい情報が入ってくるとうまく長期記憶への保存が実行されない。次から次へと膨大な情報が流れ込んでくる環境の中では折角得た知識が残らないかもしれないのだ。
まるで機械のように脳を見立てるのには抵抗を感じるかもしれないが、認知心理学のような学問の世界ではコンピュータの出現以来このような脳のモデル化による研究が主流になっている。現実にはもっと複雑なものなのだろうが、大まかに仕組みをとらえるには十分だろう。

このような記憶の仕組みを知ると、日常の情報や知識への接し方を再考する必要があると考えるようになる。極端に言えば多くの知識を得たつもりが実は何も残っていない全く無駄な日常を過ごしているのかもしれないのだ。

2012年1月 1日 (日)

東京港醸造

私の大切な友人からの贈り物。

Img_0145

見た目と違って辛口!
嬉しい!
それぞれにごり酒(どぶろく系)、梅酒は甘いというイメージがあるけど全然違った。
おまけにこのお酒が生まれるストーリーがいいね。

お正月にピッタリの色の2本。ありがとう!

2011年12月23日 (金)

にごり酒「雪小僧」

落酒造のにごり酒「雪小僧」は本当によく濁っている。瓶の半分ぐらいが白いという感じだ。白いほどいいものではないのかもしれないが嬉しい。
最近、日本酒は濃いものでないと物足りなくなってきた。危険な考え方である。アルコール度数も15度を越えるものばかりだ。この「雪小僧」も17.2度とかなり濃い。

Photo

なお、アルコール度数のわずかな違いをなめてはいけない。例えばビールの5度と6度の違いはわずか1度だが、6度のビールは5度のビールに含まれるアルコールの2割増しである。私が好んで飲んでいる「インドの青鬼」などは7度である。どうりで酔う訳だ。350ミリリットル缶1本飲めばほぼ日本酒1合分のアルコールが摂取できる。ビールのつもりで飲んでいるととんでもないことになる。実際いつもとんでもないことになっているわけであるが。

理解ということ。

学習するときに理解という行為がある。理解という言葉には受動的なイメージがある。何かを教えられるというイメージだ。より時間をかけずに理解したいという気持ちはよくわかる。多忙な社会人にとって知識の習得はできるだけ時間をかけずにすませたいだろう。そのためか効率的に理解を促進する道具は増えている。理解が楽になっている。しかし、新しい知識を理解するということは先人による新しい知識の発見をなぞる行為でもある。それを重く受け止めなくてはいけない。その新しい知識の発見の過程で先人の脳は鍛えられたはずだ。理解とは、わからないものをわかるという状態に到達するプロセスを創造することである。理解は受動的なものではなく主体的な創造なのである。その創造のプロセスこそが人間の脳の発達である。だから理解には十分な時間をかけなくてはいけない。先人が辿ってきたプロセスを同じように経験すべきだ。安易な学習のツールに頼りすぎてはいけない。

例えば、デジタル教科書やデジタル教材においては理解を楽にするような機能を入れるべきではない。

2011年12月16日 (金)

新興国市場への進出で注意すべきこと。

中小企業経営者の会合で海外進出の成功事例の発表を聞いた。台湾から始まり中国、ロシア、トルコなどの新興国市場へ事業展開し業績を高めている。この事例は製造業の事例である。国内の市場は人口が減少する市場であり製造業は海外に出なければ人口の減少と比例して縮小して行く。このように製造業は常に量を追い求めるのは必然だ。しかし「こんなにたくさんの人がいる」「こんなに増やすことができた」というような言葉が何度も聞かされるとだんだん違和感を覚えるようになった。結局国内で売るものがなくなってしまったから海外に出て行ったのではないかという疑問だ。「新興国仕様」という言葉がある。新興国では国内のような高機能の製品は求められず機能が低くていもいいので安くすることの方が重要視されるということだ。国内市場が「ガラパゴス化」と揶揄されるような海外市場とのギャップを生み出すことには反省すべき点もあるが、だからといって単に量を追い求めることに終始するのでは正しい意味での成長とは言えない。成長には量とともに質の側面もあるからだ。質を追い求めることを中断し海外に出て行くという姿勢であれば、おそらく国内市場のシェアは市場の縮小ペース以上に縮小しているはずだ。国内市場では売上も利益も落とすことなく(シェアを高める、顧客単価を高める、付加価値を高める)、同時に量の拡大のために海外に進出していくという姿勢であるべきだ。過去の海外進出は先進国への進出であった。それは量も質も追い求めることであった。しかし新興国市場への進出が単に量を追い求めることになってしまったら、それは長期的に考えると衰退の危険をはらんでいる。いずれ新興国も質を求めるようになるはずだからだ。成長は量と質の両面で達成されなくてはならない。新興国市場の魅力がその当たり前のことを忘れさせてしまうことに中小企業は注意しなくてはならない。

2011年12月13日 (火)

電機から化学へ。

日経新聞「景気指標、経済映すフェデックス」より。

「日本は主力産業が物理(電機)から化学(健康・医薬)に移行する途上にある」(三菱ケミカルホールディングス小林喜光社長)

記事は米貨物大手フェデックスがアジアのハブ空港の候補として関西国際空港を検討していること、関西国際空港での最近増加が目立つ荷物が試薬や治験薬であること、関西が医薬品産業の集積地であることが述べられている。今さらアジアのハブ空港を日本でというのは考えにくいが、フェデックスはこの医薬品に注目したのではないかという内容だ。
確かに今日本の電機は苦戦している。自分のことを考えても最近はアップル製品にお世話になる時間が圧倒的だ。韓国勢の台頭もよく言われることである。これからの日本の強みはどうなるのかと思っていたが、少し希望の持てる記事だった。

この記事では化学を健康・医薬の分野としてとらえているが、密かに注目しているのが二酸化炭素からプラスチックを作る技術だ。環境問題もこれで解決!と期待しているのだが、今も頑張っているんだろうか?

しかし、少し気が早いかもしれないが、日本の主力産業が変わるということになると経済の地図は大きく描き直されることになり、私たち個人にとっても様々な側面での将来の意思決定においてこのような変化を十分に考慮しなくてはいけないことになる。

今見えていることにとらわれることなくまだ見えていない未来を考えること(長期思考)。そう言われると簡単なことのように感じるが、案外出来ないことだ。

2011年11月 8日 (火)

記憶法への疑問。

ひとつ前の記事で記憶法について触れた。記憶したい事物をできるだけ五感を伴わせて事物に色んなものをからめながら記憶に格納していく、というような手順である。自分でやってみたところ大変な効果で驚いた。
しかしこのような記憶法ですべてを記憶していくことが正しいのかどうかというと疑問だ。記憶は目的ではなく、記憶したことを使って問題を解決する、新しい発想をする、ということのための手段でなくてはならない。
そのように考えるとこの記憶法のような不自然な記憶の仕方でよいのかどうか。人は記憶にもとづいて何かを思いつく。単純な例では言葉だ。言葉は頭の中でコンピュータのように言葉をシーケンシャルに(順番に)検索しているわけではない。言いたいことに関連しそうな言葉を記憶の中から無意識にとりだしている。もしもその言葉が関連のない五感のイメージで記憶されているとしたら、言いたいことに関連しそうな言葉としてとりだされない恐れがある。
不自然な形で記憶された事物は必要とされる場面において使われないことがあるとすればその記憶にはまったく価値がないことになってしまう。このような記憶法は記憶そのものを目的にする場合は有効であるが、そうでない多くの目的のもとでは使わない方がよい方法である。

2011年11月 5日 (土)

記憶の宮殿。

昨日、記憶は五感が伴ったときの方が確かなものになると述べた。それと同じことが今読んでいる本、

「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」
(ジョシュア・フォア著、梶浦真美訳、エクスナレッジ)

の第5章「記憶の宮殿」にあった。この本はただのハウツー本ではないが、この章については記憶法についてのハウツーを詳しく述べてある。この方法は文字が発明される前からの方法らしい。まったく脈絡のないものや事柄を覚える手順が具体的に書いてあった。例えば次のような内容のものである。

1.ガーリックのピクルス
2.カッテージチーズ
3.サーモン
4.白ワイン6本
・・・・・
15.気圧計

これらをまず自分自身の「記憶の宮殿」に納めていく。宮殿は自分の家でも何でもよいがよく知っている建物がよいようだ。自分もやってみた。自宅の駐車場から玄関、リビング、台所、和室、浴室にこれらのものを配置していく。ただし、ただ置くだけではなくそこには何か別のものを絡ませる(必ずしもそうしなくてもよい)。例えば自分の子供のような存在。何でもよい。大切なのは記憶しなくてはならないもののイメージが脳の中で鮮明に残るようにすることだ。できれば五感すべてに関わるような残し方。匂いや音や触った感じなどが伴うように脳の中に想像する。そしてその想像に集中する。例えばガーリックのピクルスならその酸っぱい味と匂いを感じながら自分自身が駐車場に置いてあるピクルスの瓶からつまみ食いしている様子を想像する、それも出来るだけリアルに、というような具合だ。この光景は相当奇妙だと思うがその方がよいらしい。より一層記憶に残りやすいからだ。このようにして本にある15のものを頭の中に残していった。驚いたことに2、3度繰り返すだけでほぼ記憶することができた。翌日もすべてではないが1つを除いてすべて覚えていた。
これが古来からある記憶法というものだ。ポイントは五感をうまく伴わせることだが、逆に言えば五感が伴った記憶は残りやすいということだ。

2011年11月 4日 (金)

デジタル教科書と記憶。

11月2日のテレビ東京「モーニング・サテライト」で米国のデジタル教科書の特集が放映された。大学、高校での普及がかなり進んでいる様子であったが、その中で印象深かったのが取材に応えた開発者(だったと思う)の言葉。生物学の授業でiPadを使って心臓の仕組みについて教えていた。iPadに心臓の3D画像が現れて鼓動にあわせて振動している。さらに心臓を触ると手の動き(スワイプ操作)に合わせて心臓が回転する。もちろん音も出ている。開発者は「これを体験すれば確実に記憶に残る」というような主旨のことを言っていた。
記憶が確かなものになるためには単に言葉を目や耳で追うだけでなく五感全体で経験することが大事だ。五感が伴っている記憶は忘れにくい。
デジタル教科書には多くの問題がある。例えば、安易に映像教材などを組み込んで展開するのには反対だ。単に目から入れる受動的なインプットは記憶に残りにくいからだ。国内のデジタル教科書を知る限りではこのような安易な展開が多い。しかしこのような展開が出来ることに大きな価値があるというような主張が当然のようになされているのだ。
学習は記憶によって終わる。その記憶の本質をおさえないでデジタル教科書のような子供の学習メディアを安易に考えてはいけない。

2011年10月12日 (水)

記憶の外部化。

記憶について調べようと思い本を探している。新聞の書評で最近知った本がある。

「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」
(ジョシュア・フォア著、梶浦真美訳、エクスナレッジ)

タイトルだけ読むと記憶力向上のためのハウツー本という感じだが、少し読んだところでそうではない感じがしている。記憶についての仕組みのようなものへのアプローチがあちこちに見られる。

まだ第1章、第2章までしか読んでいないので間違っているかもしれないが、第1章では記憶の外部化についての問題意識が提示されている。第1章の最後の文章を引用する。

「こうして私たちの文明の基礎が頭の中の記憶から外部記憶へと変わっていったことで、私たちは、そして私たちの社会はどうなっていくのだろうか。私たちが何かしらのものを得たことに疑いの余地はない。しかし、それと引き換えに失ったものもあるのではないだろうか。人類の記憶力が衰退したことには、いったいどんな意味があるのだろう」

人間が文字を発明した時から記憶の外部化が始まっている(この著者はラスコーの壁画からそれが始まっているという。確かにそうだ)。グーデンベルグが印刷機を発明し、インターネットの出現し、絶対に記憶できない量の情報が身近になったことが記憶の外部化ということの正当性を高めていると思う。どの情報がどこにあるのか、ということを知っていることが重要といわれるようになった。

しかし、思考や発想という観点で記憶の価値を考えると、これはとても肯定できない考え方だ。思考や発想は自分の記憶の中にある情報の組み合わせによって生まれるものだ。無からは何も生まれないのと同じで、少ない情報から質の高い新しい情報は生まれない。よいINPUTなくしてよいOUTPUTはないのである。

記憶の外部化は、絶対に記憶できないという状況下の時のみ許され(ちょっと厳しいか?)、できるだけ記憶は内部化しなくてはならない。

この本の主張がどうなるのかわからないが、記憶を考える材料として読み進めることにする。

超スローペースだけど。

ブログを休むことによる変化。

ずいぶん長い間更新をしていない。お酒の話で遊ぶくらいだった。仕事の方で9月の初めに顧問先が1社増えてから少し忙しくなった。新しい領域の知識を増やすためにあれこれ調べていたらはまってしまった。
このブログを始めた目的は、自分の変化を見ることだった。大きな変化は日々ブログからプレッシャーを受けるストレスが発生したこと。もちろんよかったことも多いがこのストレスは嫌なものだ。
仕事が増えたことを言い訳にしてこのストレスから逃れたのが最近の怠慢だ。

しばらくブログを休んで気づいたことがある。何となくであるが、自分が馬鹿になっていくような感覚だ。新しい仕事があるので仕方のないことかもしれないが、日々新しい情報を求める意欲が減退した。それに伴って考える量も減っている。

この状態はよくない。自分に対するネガティブな思いをもつのは思考や発想に悪い影響を与える。

今日から少し努力してみたい。新しい仕事とブログへの取り組みとが何か相乗効果的によい結果をもたらしてくれることを期待する。

2011年10月 2日 (日)

落酒造場「Taisho no Tsuru junmaigenshu 備前朝日 1990」

Photo_2

「20年の古酒がこの価格で!(たしか2000円ちょっと)」と思って、ラベルデザインも気に入って購入。ネットで調べたら4000円以上で売っていた。地元で買う地酒は安いし、一番美味しいと思う。
同じ米を原料にする中国の古酒である老酒をかなりマイルドにしたような風味。(こんな言い方をしたら怒られるか?)
以下、ラベルの説明書き。

20年を迎えるこのお酒は落酒造場で岡山県産「朝日米」を原料米として醸した最初の純米酒です。当社の仕込水は蔵周辺がカルスト台地に恵まれミネラル豊富な中硬水です。お酒は秋上がりするキリッとした力強い酒に仕上がります。私達は土地の水を活かし米の旨みを引き出し熟成に耐える酒造りを心掛けております。その為にどのような造りを行い、出来たお酒をどのように管理するべきか、試行錯誤を重ねて精進しております。お客様に五感で感じていただける本物を届けたい。その一心で酒造りに励んでおります。

原材料 米・米麹
原料米 備前朝日
精米歩合 60%
アルコール 18度

恥ずかしながら「秋上がり」という言葉を知らなかった。「五感で感じる」とあるが、琥珀色、香り、味、どれも強烈な印象。

コエドブルワリー「白‐Shiro‐」

Photo

白ビールと言われるビールの定義は知らないが、小麦、酵母を濾過しないというのが共通しているようだ。ビールはお酒だと感じる重くて強い味わいが好きだ。以下、ラベルの説明書き。

無濾過ビールならではの明るくなめらかな白濁色が特徴の小麦のビール。小麦麦芽とそのために特別に選んだ酵母が醸し出す甘い香りは果実を思わせ、さわやかながらコクが感じられる滑らかな舌触りと喉越しをお楽しみいただけます。個性的な味わいながらも包み込むようなやさしい特徴とその色にちなんで「白‐Shiro‐」と名付けられました。

コエドブルワリーのサイト。これは一通り飲まなければと思わせる。

2011年9月20日 (火)

無意識と記憶。

「無意識」という言葉を昨日の記事「無意識の力」と「欲望が思考をゆがめる」で無造作に使ってしまったので、ウィキペディアで調べてみた。「無意識」であるというのは、単純にいうと、

「意識していない」「気づいていない」

ということであるが、この「無意識」は記憶と強く関係している。

「人の一生にあって、再度、想起される可能性がゼロではないにしても、事実上、一生涯において二度と「意識の領域」に昇って来ない、膨大な量の記憶が存在する。主観的に眺めるとき、一生涯で、二度と想起されないこのような記憶は、「意識の外の領域」に存在すると表現するのが妥当である」

その「意識の外の領域」が「無意識」であるともいう。

昨日の2つの記事で述べた「無意識」は思考や発想に大きな影響を与える、というような説明はなかったが、そう考えると良質な記憶を蓄えておかないとよりよい思考や発想は得られないということになる。

思考、発想を考えるときに、意識レベルはもちろん無意識レベルでの良質な記憶の蓄積は欠かせない要件である。

記憶を強化する要素。

ダイヤモンド社のビジネス情報サイト「DIAMOND online」に西宮市の塾のことが記事になっていた。倍率10倍以上の超難関公立中高一貫校に6年連続地域No.1の合格実績を挙げている「ステージメソッド塾」の教え方だ。
大切なのは国語における暗記だそうである。その暗記の時には次のことを徹底する。

「読む暗記トレ」の3ステップ
1.読む回数を決める
2.声に出して読む
3.読んだ回数を数える→確認テスト

「書く暗記トレ」の3ステップ
1.できるだけノートを用意する
2.書く回数や書く行数を決めておく
3.書くたびに、必ず、声に出す→確認テスト

ポイントは「声に出して読む」「書くたびに、必ず、声に出す」の部分かと思う。
おそらく暗記はただ文字を頭で読むだけでは定着がよくない。音声(口に出して読む)、聴覚(自分の声を聞く)、手の動き(書く動作)、視覚(書いているのを見る)、これら一連の動作が伴うことにより暗記が定着しやすくなるのだろう。

自分の身近な経験で一例をあげる。自分は仕事のスケジュールについてよく覚えている方だと思う。手帳をみなくてもだいたいの予定は思い出せる。その思い出すプロセスを客観的に見ると自分の頭の中でスケジュールを自分で書き込んだ手帳を思い出している。手帳の画像が頭の中に浮かぶのだ。

先日記事にした「たけしのアート・ビート」でも似た話があった。たけしのネタ帳の話。「ワープロを使うとその言葉のイメージを頭に置いていけない。手で汚い字で書くと、その字自体の形がその時の感じを思い出させてくれる」(もっと乱暴な言い方だったけど、だいたいこんな意味のことを言っていた)
ネタ帳を第三者が読んでも何がおもしろいのかわからないそうである。

本で読んだだけのことよりも、自分で経験したことの方が記憶に残る。記憶の対象は文字で表されるものだけではなく、五感で感じる文字では表されないものも記憶の対象となる。だからひとつの事柄を本にある文字だけで覚えるのではなくて五感を伴わせることによって記憶が強化されるのではないかと思う。

2011年9月19日 (月)

欲望が思考をゆがめる。

時に人は信じられないような行動をすることがある。それも普段は信頼され頭がいいと認められているような人が。行動は思考の結果の現れだと考えると、思考に何かが悪い影響を与えているのではないかと思う。その何かは人間の感情的な部分、特に欲望に支配される部分ではないかと思う。
ビジネスの世界で働く人々のモチベーションの大半は個人の欲望だ。名誉が欲しい、出世したい、お金が欲しい、資産家の子供でもなければ、このように思うのが普通だろう。決して責めることのできない当り前の欲望である。欲望をもつことを否定することはできない。
大切なのは、欲望に思考が支配されてしまわないことだ。そのためには自分の思考に客観性をもつこと。まったく利害のない第三者が考えても同じように考えるかどうかという観点で自分が考えていることを評価してみることである(外部思考)。ただし、気をつけなくてはいけないのは、自分の欲望が意識できていない時があるということだ。知らず知らずに自分の主観、自分の都合、自分の論理で考えていることがある。欲望は長期にわたって自分の中に存在しているものであるから、無意識の中に刻み込まれている。真に客観的に考えるというのは極めて困難なことだと自覚しておいたほうがよい。

無意識の力。

次のような考え方をしている。

「できる」と思ってもなかなかできないことは多いが、「できない」と思っていることはほとんどの場合でやはりできない。

何かを成し遂げたいと思う時には、その何かを「できる」と信じ込むことが前提条件だ。間違った考え方かもしれないが、そのように考えて生きてきた。
これと似たことで、次のようにも考えている。

「そうなる」と思ったことは大抵そうなるものである。

もちろん「そうなる」の実現確率が低いものであればそうならないだろうが、「そうなる」か「そうならない」かの実現確率の差が大きくない場合の話である。

気をつけなくてはいけないのは「そうなる」の内容がネガティブな内容である場合である。例えば、「自分は運が悪い」、「今年は天中殺だ」、「自分はつまらない人間だ」、「失敗する」というような思いを抱いて生きていると、知らず知らずのうちに色々な場面でそうなるような選択をしている恐れがないだろうかと思うのである。

あること意識していることが続くと、無意識のなかにそのことが定着してしまい、無意識にあるそのことが思考や判断に影響を与えるようになるのである。

このようにややこしく考えているわけだが、「人間は常に前向きに生きろ」というようなセリフと大差ないような気もする。

2011年9月18日 (日)

炭屋彌兵衛

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よく飲むお酒。うまく説明できないが、ふっくらした感じの優しい味わいのお酒。岡山県真庭市の蔵元「辻本店」のお酒は日常的に飲んでいる。以下、お酒の説明書きから。

炭屋彌兵衛、酒名の由来

御前酒蔵元の辻家は江戸時代(17世紀後半)より「炭屋」という屋号で呉服商を営んでおりましたが、3代目 彌兵衛 篤仁はそれを番頭に譲り、文化元年(1804年)に酒造業を創めました。酒屋としての初代であることから、辻家ではこの人を御前酒蔵元の初代と呼んでおります。「地元の米・水・風土」を大切に「御前酒」を現在の姿まで育て上げた、その魂を広く消費者の方にご理解頂く為に、ここに自信を持って「炭屋彌兵衛」を酒名とさせて頂きました。

炭屋彌兵衛、酒の特徴

厳選された岡山県産の雄町米を全量使用しています。醪の発酵によって造られた清酒の旨味をそのまま生かす為、活性炭素は一切使用しておりません。純米酒本来の色である山吹色の輝きと、やや酸のある風味は喉越しの良さと飲み飽きしない酒質を造り上げています。


原料米 雄町米
精米歩合 55%


2011年9月11日 (日)

野田首相の内閣人事はおかしい。

鉢呂経産相辞任。「死の町」「放射能つけたぞ」発言でということだが、早くも恐れていたことが起こったという感じだ。野田首相の内閣人事は党内融和を最優先したものだ。経済の低迷、財政難、円高、震災という戦後最大の国難の時に国家の最高意思決定機関に求められる人事はベストメンバーで臨むべきだろう。「私は素人」と言った一川防衛相の発言に象徴されるようにこの内閣人事には問題があまりにも多過ぎる。企業で言えば内閣は取締役会に相当するが、こんな素人を集めたような人事はありえない。この内閣は絶対にうまくいかない。政府もうまくいくはずがない。
野田首相の思考は明らかにおかしい。以前、党首選での野田首相の政策を評価したことがあるが、全候補者の中で最低だった。リーダーとしてごく基本的な思考ができないような人が首相ではこの国難はのりきれないだろう。

仕事の価格を維持するために。

昨日の「所得の二極化が進む日本」に関連して、同じ9日の日経新聞に次の記事が出ていた。

富士通、ソニーがパソコン輸出を拡大する。富士通は生産ラインに複数の作業をこなせる多機能型ロボットを導入し、2013年度に11年度の3倍強にあたる220万台を輸出する。ソニーはパソコンの設計から生産までを長野に集約して「日本製」の旗艦機種をアジアなどに輸出する。国内工場の生産革新と中国の人件費高騰で日中のコスト差は縮まりつつあり、各社は高品質の「日本製」で新興国市場を開拓する。

記事によると「中国の製造業の人件費は過去5年に2倍に高騰」とある。仕事はグローバルコストで評価される時代においては、新興国でもできる仕事の価格は低下するが、早くも中国の仕事の価格が先進国に近づき始めた。ただし、富士通が「現在、すべて人手に頼っている組み立て工程の約3割を多機能ロボットに置き換え、人件費を3割削減する」というように仕事は人からロボットに移り、これまでのように雇用がすべて確保されるわけではない。
仕事はグローバルコストと機械化コストとで評価される時代ということだ。人間にしかできない、そして新興国ではできないレベルの仕事だけが価格を維持することができる。それは高度な知識、知恵、発想が求められる仕事だろう。

所得の二極化が進む日本。

8月20日に次のような文章を書いた

先進国が製造してきたものの大半は、新興国でも製造できるようになる。しかも新興国で製造した方が低コストだ。先進国では所得の2極化が進んでいるが、低所得者の仕事は新興国に移ったことが大きく影響していると思う。間違っているかもしれないが、新興国の所得水準が先進国に追いつくまでこの2極化はさらに加速していくと思う。

根拠もあいまいな稚拙な文章だと思っていたが、一昨日の日経新聞にうまく説明している記事が出た。慶應義塾大学准教授、小幡績さんの文章から引用する。

円高に伴う雇用調整とは、日本での雇用縮小という単純な量の問題ではない。日本人の雇用は二極化し、両者の差は拡大する。グローバル経営者の価値は大幅に高まり、これまで蓄積したノウハウを世界各地で指導する社員や独自の研究開発ができる社員の価値も高まる。一方、生産委託コストで判断される社員の価値は、以前より低下したグローバルコスト価格となる。

仕事がグローバルコストで評価される時代が来たわけだ。

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